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  最初の大リーグであるナショナル・アソシエーション(NAPBBP、以下NA)が起こったのが1871年。その後に現在まで残ることになるナショナル・リーグ(以下ナ・リーグ)やアメリカン・リーグ(以下ア・リーグ)が誕生するのであるが、その前後には野球がプロ興行として成熟するまでの紆余曲折があった。ここでは19世紀の野球の興行の変遷を見ていきたい。
  



・野球の誕生

  まず、その前に簡単にプロ野球前夜のアメリカ野球を振り返ろう。野球はどのようにして生まれ、いかにしてプロ野球が発生したのか・・・・。

  「野球起源調査委員会」なる1905年に組織された団体の調査によれば、「野球の起源はアメリカであり、1839年にニューヨークのクーパーズタウンでアブナー・ダブルデイ将軍によって考案された」という。この発表は1907年になされたのであるが、一時期クーパーズタウンに居住していたアブナー・グレーブズという老人の「「野球はアブナー・ダブルデイによって考案され、オッセゴ・アカデミーとグリーン・セレクト・スクールの間で行われた試合が最初のもの」という証言に基づいた発表であった。
  この発表を受けた実業家スティーブン・クラークは、クーパーズタウンに野球の博物館を開いた。これが初代コミッショナーのマウンテン・ケネソーランディスの支持も受け支援者も増大、1935年により大きな博物館と野球殿堂作りのための組織も発足した。そして1939年−つまり、ダブルディの野球発明から100年目の年に、ついに殿堂のお披露目を見る。
←アブナー・ダブルデイAbner Doubleday 

  しかし後年の調査で、アブナー・ダブルデイは1839年にはクーパーズタウンにはいなかったことが判明。また、ホノルルに住むブルース・カートライトという人物が、自身の先祖であるアレキサンダー・カートライトが真の創始者であると主張した。

  アレキサンダー・カートライトは1845年当時、銀行員であり、弟と雑貨屋も経営する若者であった。ニューヨークのマンハッタンに住む彼は、火事が多いのを見てボランティアの消防団を組織した。
  当時のニューヨークはヨーロッパ中から流れ住む人々が増え、急激な人口増加と都市化が進んでいた。しかし一方で、凶悪な犯罪も増加しつつあり、貧富の差の大きさも目立つ、閉塞と苛立ちに包まれた都市となっていった。まるで「切り裂きジャック」事件を産み出したロンドンの様子を見ているようだが、大都市が発生する過程というのは大なり小なりこういうものである。
  そんななかにあって、なかには「このままではいけない」と考える人もでるようになった。そういった人たちは、社会を良くするためのボランティア組織を次々に産み出した。アレキサンダー・カートライトもその一人である。
  さて、ホワイトカラーを集めて消防団を結成したカートライトは、団員の運動不足を解消するために、リクリエーションとしてタウンボールというスポーツを導入する。タウンボールというのは、ヨーロッパで(遅くとも)18世紀からプレーされ、イギリスではラウンダースと呼ばれていた球技が、アメリカで名を変えたものであった。カートライトたちはタウンボールのルールを、自分たちに合うように細部を変えてプレーしていった。これがベースボールの起こりとなった。またユニフォームを着用し、会員制を導入することにより、社交クラブとしてのチームとしての側面も強まっていった。
  やがて社交としてのベースボールは近隣の町でも行われるようになる。試合後は両チームの選手が食事のテーブルにつくこともあった。
←アレクサンダー・カートライト Alexander Cartwright

  野球はアメリカ北部と東部を中心に人気を博し始め、1858年には最初の野球協会ができる。その後の南北戦争では、南軍の兵士の間でも余暇にベースボールが行われたという。まさにカートライトが狙ったように、ここでもベースボールは、プレーする人の士気高揚と団結を促すのに役立った。戦争後、野球を経験した兵士たちは、故郷に帰ってからベースボールをそれぞれの町で伝えた。これがもとで一気に全米にベースボールが伝播し、各地で野球チームが多く生まれた。なかには「地元では有名」というチームも数多くなり、これがプロ野球発生の下地となってゆく。




・巡業プロ野球の時代

  さて、各地で野球が盛んになると、野球を職業とする人も出てくる。最初の報酬をもらってプレーした選手は、ホームランを打ったときに内臓が破裂して死亡したことでも有名なジム・クレイトン選手である。彼は1860年にBKNエクセルシアズから報酬を受け取っている。ただし、この当時は選手が報酬をもらうことは許されていなかったので、彼を史上第一号のプロ野球選手とすることはできないとする考え方もある。
  1864年にBKNエックフォーズからPHIアスレティックスに移籍する際にお金をもらったアル・リーチをプロ野球選手の走りともされている。
  1869年には、チーム全員がプロ野球選手というチーム−つまりプロ野球チームが始めて誕生する。CHNレッドストッキングスがそれである。前出のカートライトのチームでもプレー経験があるハリー・ライトが中心になって球団を起こし、弟のジョージ・ライトが遊撃手兼主将で1400ドル、投手のエイサ・ブレイナードが1200ドルで契約した。
  レッドストッキングスは、シンシナティーから西海岸までを転戦して巡業した。行く先々で地元の有力チームや大学のチームと対戦したのである。当サイトのエイサ・ブレイナードの紹介記事でも書いたが、この69年はレッドストッキングスは無敗の快進撃を続け、地元シンシナティーの名を高めるのにも成功した。
  彼らの成功を見習ってか、プロ野球チームはその後各地で出来始めた。優秀な選手には報酬が支払われ、各地のチームで引っ張りだこになった時代がやってきたのだ。
  ただし、巡業野球には収入源が安定しないという弱さがあった。これがプロ野球のリーグが生まれる原因となる。
  


・ナショナル・アソシエーション
 
  1871年、我々はようやく初のプロ野球リーグの誕生をみる。このナショナル・アソシエーションを大リーグと認める考え方もあれば、そうでない向きもあるが、当サイトでは大リーグとみなして進行をさせて頂きます。
  正式名称はナショナル・アソシエーション・オブ・”プロフェッショナル”・ベースボール・プレイヤーズである。それ以前にもナショナル・アソシエーション・オブ・ベースボール・プレイヤーズという団体があったのだが、これはプロチームが誕生する前に出来た団体であり、リーグではなく組合のようなものであった。
  NA発足時の会長はジェームズ・カーンズ、ニューヨークのカフェで結成された。
  NAの特徴は、入りたいチームは10ドルを払えば加盟できるということ。これで巡業の時の「対戦相手を探す苦労」から解放されるのだ。
  年間の試合数の半分は地元のフランチャイズで行うため、野球=都市対抗の図式がますます強まり、地方の野球熱を盛り上げた。しかし、これには「強いチームは」という条件がついた。弱いチームは客離れが起こりやすかったのだ。ヨーロッパで興行として成り立っていたボクシングは、18世紀にはすでに体重による階級分けがなされていたことを考えればわかり易いが、興行を盛り上げるには複数の強者がいたほうが有利なのだ。
  リーグ戦には勝つチームもあれば、負けるチームもある。ましてNAの場合は加盟料10ドルという極端なオープンリーグで、小さい町のチームも加盟していた。これでは観客動員数にも差が出るのは当たり前であった。また、加盟のハードルが低いということは、倫理的に問題のある選手やチームも在籍しやすいというデメリットにもつながる。実際にこのNAは賭博や八百長にまみれ、1875年にわずか5年で消滅してしまうのであった。
←都市間での対抗戦としての野球。




・ナショナル・リーグ

  言わずもがなの現在まで続くナ・リーグである。1876年に、前年に消滅したNAの欠点を補完するような形で発生した。初代会長はモーガン・バックリー、翌年からは実質的な創始者であるシカゴの実業家ウィリアム・ハルバートが会長となった。
  ハルバートがリーグ経営に対して、非常に明確なビジョンを持っていた。
  特徴は、それまでの開かれたリーグのあり方を改め、厳しい参加資格を設けたことである。つまり球場での酒類の販売禁止、賭博の禁止、日曜日の試合開催の禁止などである。また、NAにはプロ球団としてのバックボーンをもっているとはいえない球団もあったことから、ナ・リーグに加わる球団は人口75,000人以上の都市のチームであることが条件とされた。
  当時のナ・リーグの首脳は、とにかくこのリーグを潔癖なものにしたかったようで、聖職者は入場料無料で、一般には入場料50セントという当時としては高価な金額を設定していた。高額な入場料は、低所得者層を球場から締め出すためで、聖職者の入場無料はクリーンなイメージの演出のためとされている。
  さらには、リーグの健全化のみならず、弱小球団の救済策まで講じて、リーグ全体の経営の安定化を図った。リーグの総入場料の分配制度がこれである。その年は弱く優勝に絡めないような球団にファン離れが起こっても、即座には球団が解体しないように配慮したのである。




・アメリカン・アソシエーション

  ナショナル・リーグの会長であったハルバートは苛烈とも言える規則の適用でリーグを引き締め、それによって追放される選手や球団が出てきた。そうしたなかでナショナル・リーグとはまったく異なる運営ポリシーを持ったリーグが誕生した。アメリカン・アソシエーションである(以下AA)。
  このリーグは1882年にスタートした。入場料をナ・リーグの半分の25セントとし、黒人初の大リーガーであるフリート・ウォーカーを登用するなど、ブルーカラーやWASP以外の人にも開かれたリーグを目指していたようだ(ジャッキー・ロビンソンはあくまで「20世紀初の」黒人大リーガーです)
←フリート・ウォーカー Moses Fleetwood Walker

  このAAでは、日曜日の野球試合の開催や球場内での酒類の販売なども実施し、ナ・リーグを追放された球団や選手も受け入れていたし、ナ・リーグの選手を引き抜いたりもしていた。ナ・リーグは、なにからなにまで自身と反対の方向性のAAを当初は許せるはずもなく、同等の大リーグとはみなしていなかった。しかし。AA二年目の1883年の秋に、ナ・リーグの選手の引抜を辞めることを条件に、AAを大リーグと認めることとしたのである。
  また、84年からはナ・リーグの優勝チームと全米一を争う決定戦を行うという画期的な取り組みも行われた。実はこの段階では、未だリーグに加盟せずに巡業形態を取る実力派の野球チームも多くあったが、この取り組みによって、「大リーグを頂点として、その下にこれまでの地方強豪チームが、マイナーリーグチームや独立リーグチームとして存在する」というヒエラルキーが明確になってきたとする説もある。
  AAはナ・リーグと別の都市に球団の本拠を置いたこともあいまって、1891年まで存続した。




・ユニオン・アソシエーション
  
  19世紀のプロ野球は現在のような、夢のような大金が飛び交うような世界ではなく、まだまだ経営的には弱い部分が多かった。
  そこでナ・リーグはリーグ経営の安定化を図るために策を打ち出していたが、その中には1879年に合意を見た「保留条項」がある。これは、「オーナー間で互いの選手の引抜を行ってはならない」とする条約である。野球選手は球団に提示された給料がどんなに安かろうと他所へなど移ることは出来なかったのだ。
  この条約は実に20世紀後半まで選手の足かせとなり、1919年に社会問題にまで発展した悲劇的な八百長事件「ブラックソックス事件」の大きな原因のひとつとなる。しかし19世紀の背景ではリーグ、あるいは球団の経営の安定にはしかたのない存在の必要性があったのだ。
  しかしこの条約によってばかばかしいほどに安く給料を抑えられる選手もいて、ナ・リーグの選手の多くは待遇に不満を持っていたという。
  1884年、こうしたナ・リーグの背景につけこもうとした男が現れた。ヘンリー・ルーカス、26歳である。セントルイスの大地主の息子で莫大な遺産を受け継いだ彼は、他の資産家たちの協力を得て、プロ野球リーグを設立する。すなわちユニオン・アソシエーション(以下UAである。
  しかしながら、ルーカスには野球を愛する心こそあったものの長期的なビジョンはなかったと思われる。自らもチームの一員としてプレーもしたが(ルーカスの選手成績は私が調べた範囲ではわかりませんでした)、選手の契約にはほとんどと言っていいほど制約をつけなかったのだ。要は「金のある所が勝つ」という判り安すぎる事態をを産み出してしまい、球団間の戦力差が激しく開いた。これにより名選手フレッド・ダンラップ(この年は打率.412、本塁打14本、安打数185でいずれもトップ)を擁したルーカスのセントルイス・ブルース球団が94勝19敗というぶっちぎりを見せて、リーグ会長でもあるルーカスの自己満足のみに終始したシーズンは終了。
  同じ都市に複数のチームを複数置くという不見識もあった上に、ナ・リーグの選手引き抜きの反撃にもあい、1シーズンのみでリーグは解体した。
  ただしルーカスのブルース球団は翌年は、セントルイス・マルーンズとしてナ・リーグに加盟できたので、野球好きなルーカス本人としては良かったのかも知れない。



・プレイヤーズ・リーグ

  オーナー側に対抗するために、ナ・リーグのNYジャイアンツの投手兼外野手であったモンテ・ワードが1885年に選手の組合(brotherhood)の必要性を呼びかて、初の選手組合が組織される。
  モンテ・ワードは本名ジョン・モントゴメリー・ワード、「そつがなく、ユーモアのある」人柄だったと伝えられる。また、元同僚ハブ・コリンズの未亡人のためにチャリティー試合を主催し、未亡人に3000ドルを渡したエピソードがある。投手としては84年まで投げ、通算164勝102敗、勝率は.617、防御率は史上7位の2.10。その後も野手として活躍を続け、通算打率.275、安打2104という成績が残っている。
←モンテ・ワード John Montgomery Ward

  しかしオーナー側はさらなる選手の給料をさらに制限すべく、88年に選手を技量順に五段階にランク付けて、その段階ごとに選手サラリーの上限を設ける「法案」を批准した。いかなる素晴しい成績を残した選手にも、給料には限界を設けよう、というのだ。
  当然、選手たちはこれに大激怒。翌89年には大規模なストライキさえ現実的になった。しかし選手組合の長であるワードは敢えてこれを押さえつけた。オーナー側の一方的な選手支配を許すことが出来なかったワードはさらに大きな計画を練っていたのだ。
  89年11月、ワードを含む、選手の代表たち30人ほどがニューヨークで話し合いをもった。その席で代表たちはワードが提唱する「プレイヤーズ・リーグ(以下PL)」への参加を了承した。代表たちは選手勧誘を続け、12月までにナ・リーグとAAから120人ほどの選手を集めることに成功する。かくしてPLは設立する運びとなった。最終的には、ダン・ブローザーズ、ヒュー・ダフィー、ロジャー・コナーといった有名選手も続々参加し、ナ・リーグの全選手の8割を引き抜くことに成功したのだ。ワシントン球団などは、チームごとナ・リーグからPLに移っている。
  PLはオーナー制を引かずに、各チーム一人の代表からなる8人の委員で管理された。またゲームの収益はホームチームとビジターで折半と言うのも特徴だった。
  90年、プレイヤーズ・リーグは開幕。球団数は8で、観客も多く詰め掛けた。スター不在でなんとかマイナーからの昇格選手で穴埋めをし、観客席は閑古鳥だったナ・リーグに比べると、PLは絶好のスタートを切ったかに見えた。
  しかし結果的にはワードの目論んだようにはことは進まなかった。徐々にナ・リーグ側からの、選手の逆引き抜きに会うようになったのだ。もともと選手を締め付けない方針でスタートしたPLだけに、ナ・リーグがさらに高い選手給料の提示をしてしまえばどうしようもなかったのだ。
  ボストン・レッズが優勝した90年の1シーズンのみで、結局PLは解散。選手のためのリーグを標榜しても、いたずらに340万ドルの損失を出して終わっただけだった。当然ナ・リーグもAAも大損害を受けたので、ワードの理想とは裏腹に、球界全体から見るととんでもない年になってしまった。シーズン後、PL8球団のうち、ボストンとフィラデルフィアの2つはAAに、残りの6球団はナ・リーグに買い戻された。ワード自身は93年に、ジャイアンツから大歓迎を受けて復帰している。

  実はPLで優勝したボストン球団のハリー・ストーヴィー外野手が、この90年に12本塁打を打ち、大リーグ史上初の通算100本塁打を達成している。歴史の徒花と言ったところか。




・アメリカン・リーグ
  今に至るア・リーグである。ことの起こりは1894年に当時あったマイナー・リーグ、ウエスタン・リーグの会長にバン・ジョンソンが収まった事である。ウエスタン・リーグは1888年創設のリーグで、その実力はナ・リーグに匹敵するとまで言われたレベルの高いリーグだった。ジョンソンは、94年限りでナ・リーグのシンシナティ球団の監督を解任されたチャーリー・コミスキーをリーグ経営のパートナーに向かえ、1900年にリーグの名称を「アメリカン・リーグ」と変更する。
  19世紀末、今も存続するナ・リーグも経営の危機に立たされていた。88年に選手のサラリーを制限する「ランク付け」の法を導入したのは前述のプレイヤーズ・リーグの所でも書いたが、PLが誕生してしまったので、PL以上に高いサラリーを提示して選手の呼び戻しを行った。しかしPLが消滅が消滅すると、92年に早速全オーナー一致で選手のサラリーを40%引き下げた。この二枚舌ぶりに当然選手たちは不満を強めたが、オーナーたちは88年に定めた上限のサラリーも払えないほどになっていたのだ。1899年のシーズン終了時には一気に三球団が脱退する事態が起こっていた。
  ジョンソンは、ナ・リーグの危機を野球の危機と捉え、アメリカン・リーグを大リーグにすべく工作を始める。ナ・リーグの選手を引き抜いたのを手始めに、マスコミとの連携、的確な大都市の球団配置(競合すべきところはナ・リーグの球団と競合し)、鮮やかな日程の調整など、今までのナ・リーグの挑戦者たちとは一線を画く手際を見せたのだ。
  ジョンソンは、保留条項を定めない各球団14人のロースターによるチームを構成した。この考え方に、これまでオーナーに頭を押さえつけられてきたナ・リーグの選手の多くが、例によって飛びついた。サイ・ヤング、ナポレオン・ラジョイなど、1901年3月20日に発表されたア・リーグの選手185人のうち、111人までがナ・リーグでのプレー経験者だった。
  チケットの値段もナ・リーグより安く設定したア・リーグだったが、ただナ・リーグと反対の特色のリーグとしただけではない。自身が新聞記者をしていたこともあるジョンソンは、当初から明らかにマスコミへのイメージを意識していた。ナ・リーグの見習うべき所は見習い、酒や汚い言葉、ギャンブルなどはリーグから締め出すように厳しく眼を光らせたのである。その上で審判の権威を尊重し、監督以外の選手の審判への行為を禁じた。この権威への尊敬の明確さがア・リーグの特徴ともなった。
  
←バン・ジョンソン、Byron Bancroft Johnson
  自らも記事を書いたことのあるスポーティング・ニュース社とのパイプを強め、マスコミへのイメージ作りにも苦心した。ブランチ・リッキーはこう語る「いかなる個人やグループの野球への功績も、バン・ジョンソンには及ばない」

  1901年の4月24日午後3時35分、シカゴ・ホワイトストッキングスのロイ・パターソン投手が、対戦相手であるクリーブランド・ブルーズのオリー・ピカリング右翼手相手に第一球を投げ、アメリカン・リーグは歩みだした。
  しかし、最初のシーズンに早速トラブルが起こる。ナ・リーグのフィラデルフィア・フィリーズから引き抜いたフィラデルフィア・アスレティックスのナポレオン・ラジョイ選手のフィラデルフィアでのプレー差し止めをフィリーズが提訴していた件で、シーズン終了後に裁判所が提訴を認める判決を下したのだ。ア・リーグのジョンソン会長は、アスレティックスのコニー・マック監督に、同じア・リーグのクリーブランド・インディアンス球団にラジョイを譲るよう説得し、マックは泣く泣くこれを聞き入れた。ラジョイは01年、史上初の満塁での敬遠四球を受けるほどの活躍ぶりで、打率.422、本塁打14、打点125の現在で言うところの三冠王という成績だった。

←ナポレオン・ラジョイ Napoleon Lajoie
  強力な打撃と華麗な守備を見せたフランス系初の大スター。フランス移民や子孫たちは、フランス語で書かれたボックス・スコアを見て彼を応援したという。ハンサムで人格も円満だったと伝えられる。

  翌1902年のシーズン後には、ア・リーグを認めたナ・リーグが「ナ・リーグに加盟するよう」にジョンソンに要請した。しかし、時勢はすでにア・リーグにあった。ア・リーグは、その要求を呑まず、逆に両リーグのチャンピオンによるワールド・シリーズの開催を要求した。これは03年から毎年行われることとなり、04年こそ、ア・リーグのNYフランチャイズ配置の時にジョンソンと悶着のあったジョン・マグロー(この年のナ・リーグの覇者NYジャイアンツの監督)が拒否して行われなかったが、現在も続いている。


  バン・ジョンソンと関係の深かったスポーティング・ニュース社(1886年創立)は、2001年にアメリカン・リーグ創立100周年を祝う特集を組んでいる。






この項の主要参考文献
・佐山和夫   『松井秀喜の「大リーグ革命」』 講談社   2003年
・古内義明   『メジャー、俺たちの誇り〜選ばれし男たちの戦場』 実業之日本社 2001年
・宇佐美陽   『大リーグと都市の物語』 平凡社 2001年
・西井和夫編 『日米野球100年』  毎日新聞社 1996年
・平出隆    『白球礼賛』   岩波新書 1989年
・スティーブン・A・リース 『プロ野球の社会的機能 20世紀初頭のアメリカ』 1987年
・ロバート・W・ヘンダーソン『青年期のベースボール』 1987年





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19世紀の野球興行の変遷