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このコンテンツでは、従来の日本語の書物ではあまり扱われなかった、タイ・カップ以前の名選手を紹介していきます。
基本的に、デビューの早い選手が上になるように掲載して参りますが、更新の順番自体はまったくのランダムですので、あしからずご了承を下さいます様お願い申し上げます。
■ エイサ・ブレイナード 大リーグ夜明け前のエースの神話
■ アル・スポルディング 後の英国王とまみえた「ベースボール共和国」の初代国王
■ キャップ・アンソン 功績と、そして罪障にもまみれた19世紀の魔王
■ キング・ケリー 盗塁王は派手派手文士、きらびやかな”キング”
■ チャーリー・ラドバーン 19世紀でも脅威!年間60勝投手
■ ピート・ブラウニング 苦難と戦い続けた「剣闘士」
■ シド・ファーラー スタジアム発。舞台で響いた才能と言う名の楽曲
■ ビリー・サンデー 演壇の上でも滑り込みをかました”布教者”
■ ダン・ブロウザーズ 大なるものその動きは細やか、パワフルな”ビッグ・ダン”
■ サム・トンプソン 46歳でメジャー復帰、野球を愛した元大工の執念
■ エド・デラハンティー 19世紀最強打者の栄光と謎の死
■ エイモス・ルージー 権利を求めて戦った「五年間の王」
■ ジョージ・カップ 19世紀でも脅威?年間37敗投手・・・・(苦笑)
■ ウイリー・キーラー 44年後にも蘇った史上最高の狙撃者
■ ルーブ・ワデル 投手の望むすべての才能をもっていた、希代の変人
■ マイク・ドンリン 銀幕がバッター・ボックスになった天才打者
■ ドック・ホワイト カーブよりも楽曲で名を残した優しいエース
■ フレッド・マークル 44歳で残してしまった永遠の汚名
■ ヴィクトリー・ファウスト 実在したフォレスト・トガンプか?悪魔に魂を売って栄華を得た者か?


盗塁王は派手派手文士、きらびやかな”キング”
キング・ケリー King Kelly
1857〜1894 実働1878〜1893(16年)
生涯打率.306 本塁打69 打点950 盗塁368
首位打者2回 46年殿堂入り

右投げ右打ち。ポジションはやはり内外野いろいろ守った。盗塁は1885年以前の記録は残っていないが、それでもこの数字を誇っている。彼の時代ではもっとも偉大な走者であり、1試合6盗塁をマークしたこともある。観客たちは「ケリー、スライド!ケリー!」と叫び、彼の走塁を楽しんだ。「ヒットエンドランはタイ・カップが考案した」と紹介する書物があるが、どうやらこのケリーが発明したようである。キャップ・アンソンもこのケリーの賢さには脱帽していたようだ。
彼はグラウンド外でも活躍した。「ベース・ボール」というペンネームで執筆活動をしたり、ニューヨークにサロンを開いたりした。またこのハンサムでおしゃれなアイルランド人は、賢明でありながらのんき者であり、人々は彼の性質を愛したと言う。
1894年に37歳の若さで肺炎でなくなるのだが、担架で運ばれる際に足側を持っていた人がバランスを崩し、ケリーは担架からずり落ちてしまう。ケリーは言った「これが俺の人生最期のスライディングだな」。
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19世紀でも脅威!年間60勝投手
チャーリー”オールド・ホス”ラドバーン Charlie ”old Hoss”Radburn
1854〜1897 実働1880〜1891(11年間)
生涯成績309勝195敗 防御率2.67 投球回数4535.3回
防御率1位1回、最多勝利投手2回、最高勝率2回、最多奪三振2回、1939年殿堂入り

右投げ右打ち。上記の通り1894年は60勝12敗という超人的な成績を残した(資料によっては59勝)投手。ラドバーンの時代、多くのチームはレギュラーの投手が2人という布陣で、レギュラー投手が投げられないような状況でようやく控え投手や野手がマウンドにあがったりしていた。しかし、当時としてもさすがに60勝は脅威の記録だった。
1880年、ラドバーンは野手として(外野と二塁の出場が半分づつ)バッファロー・バイソンズに入団するが、21打数3安打の.143に終わり、あっさり解雇されてしまう。翌年からは何を思ったのか投手としてプロビデンス・グレイズと契約する(以下PROグレイズ)。投手1年目にも関わらず、才能を発揮したラドバーンは25勝11敗の成績を残した。彼の投球ぶりはとにかく安定していている上にスタミナも抜群であったと伝えられる。
さて超人的活躍をすることになる84年。ラドバーンはシーズン途中にも関わらず、他のプロ野球リーグであるアメリカン・アソシエーションの球団に移籍しようとしていた。というのも大酒のみでとにかく性格が悪かったと言われるラドバーンは、あるゲームでパスボールをした捕手が許せず、しばらく取りにくい球ばかりを投げていた。その後、このゲームの有様がプロビデンスに広まるようになると、なんとラドバーンはさっさと移籍の準備をすませてしまった。しかしその移籍先の球団は、PROグレイズのもう一人のレギュラー投手であるスウィーニー投手と契約してしまっていた。このままでは投手がいなくなってしまうグレイズはラドバーンを慰留。しぶしぶ戻ったラドバーンだが、地元プロビデンスのファンはこの有能な右腕のカムバックを温かく迎えた。それに感激したのかラドバーン、シーズンの残り試合数は27になっていたが、その27試合すべてに登板、26試合で勝利する。この驚嘆すべき活躍ぶりのラドバーンは年間60勝を達成。チームをナ・リーグ制覇に導く。そのあとで行われた「元祖ワールドシリーズ」ともいえるアメリカン・アソシエーション優勝のNYメトロポリタンズとの5連戦も、ラドバーンが3連投で3連勝、一気に全米プロ野球の頂点にたった。
84年以降も、BOSビーンイーターズやCHNレッズで活躍を続けたが91年で引退。84年からオーバースローが解禁になっていたが、生涯サブマリン投法で通した。
引退後のラドバーンは、狩猟中の事故で片目を失い、世間に出なくなってしまう。そして42歳で、経営していたビリヤードホールの奥の陰湿な部屋でひっそりと亡くなった。
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苦難と戦い続けた「剣闘士」
ピート・ブラウニング Pete Browning ”Gladiator”
1861〜1905 実働1882〜1894(13年間)
生涯打率.341 本塁打49 打点659 盗塁258
首位打者2回(打率4割以上一回)

右投げ右打ち。三塁手、外野手。AAの名選手の一人で、なぜ殿堂入りしていないのか不思議に思われるほどの活躍を見せた。
1861年6月17日、ケンタッキー州のジェファーソン生まれ。8人の兄弟姉妹の末っ子だった。13歳の時に、父親がハリケーンに巻き込まれた時の重傷が元でなくなり、以後は母親のメアリー・ジェーン・シェパード・ブラウニング夫人が1人手で兄弟を育てた。
かつての子供の主要な死因のひとつである乳様突起炎にかかってしまい、難聴など様々な障害に苦しむ人生を送ることになるブラウニングだったが、活発な運動好きの少年としてすくすく育っていった。しかし、スポーツの活躍とは裏腹にとにかく学校が大嫌いで、母がせっかく買ってくれた教科書は、友人のジョン・レシウスの家に置きっぱなしだったという。あまりの不勉強のために、読み書きをほとんど覚えなかったようだ。
82年に友達のレシウスと一緒にAAのルイスビル・エクリプス(後にカーネルズと改名)に入団。打撃の非凡さは誰の目にも明らかで、初年度から、規定打席にこそ届かなかったが.378という高い打率をマーク。その後もはつらつなプレーと道具を大事にする姿勢で人気を博した。200本以上のバットを保有し、なんとそれぞれに名前をつけていた。
ただし守備力は「本当にプロなんですか」と思ってしまうほどで、生涯の守備率は.880。それでも届かない打球を必死に追う姿には”Gladiator”というあだ名がついた。
84年にブラウニングは、バッド・ヒラーリッチという青年にバットを発注する。青年は10年後の94年にケンタッキー州ルイスビルでHillerich&Bradsby社を開き、大リーグに本格的にバットの供給をはじめる。つまり大リーガーの御用達バットとして有名な「ルイスビル・スラッガー」の最初の使用者はこのブラウニングだったのだ。
ブラウニングは野球が大好きで、メジャーを去った84年以降も煙草のセールスなどをしながらマイナーリーグなどでのプレーを続けた。野球を観戦する彼の姿もたびたび見かけられたと言う。
ところで、生涯に苦しんでいた彼は、現役時代から多量のアルコールで苦しさを紛らわせていた。1905年に肝硬変など複数の病気を一気にわずらい、4ヶ月ほどの闘病生活の末の9月に、苦難に満ちた44年間の生涯を終える。8月には他の患者の呻き声が聞こえるのが嫌だと言って病院を抜け出し、母の家まで歩いていって他の病院に移されることがあったという。
彼の遺体は母親の家に移され、そこからルイスビルのメジャー・リーガーの多くが眠るケイブ・ヒル墓地に移された。葬儀にはジョン・レシウスを初めとしたかつての野球仲間も参列していた。
私は彼のエピソードの触れると、『ハックルベリー・フィンの冒険』でも読んでいるような感覚になってしまう。ニュートンは「科学の時代の最初の人」などと呼ばれるが、ほぼ文盲といういかにも原近代的な条件をもち、障害と戦いながらも自らのバット一本で人生を切り開いたブラウニングを「冒険の時代の最後の人」の1人という言い方はできはしないだろうか?
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スタジアム発。舞台で響いた才能と言う名の楽曲
シド・ファーラー Sid Farrar
1859〜1935 実働1883〜1890(8年間)
生涯打率.253 本塁打18 打点412

右投げ、打席はわかっていない。今に続く名門PHIフィリーズの一塁手だった彼は、本拠地だったリクリエーション・パークでのゲームには決まって娘を連れてきた。その娘はとても美しい声の持ち主だった。
以下は伊東一雄氏と馬立勝氏の共著、『野球は言葉のスポーツ』(中公新書、1991年)からの引用である。
ある試合後のクラブハウスでのことだった。着替えを済ませた選手たちが、帰ろうと腰を上げ始めた。ジェラルディン(ファーラーの娘)だけがパパのロッカーの前で椅子に一人で座っている。「パパはどうしたの」と尋ねるとジェラルディンは黙って戸口のほうを指さした。シドのやつ、子供を一人置き去りにして、何人かが外に出てみると、シドは大きな袋を担いでスタンドの椅子の間を腰をかがめて動き回っている。「何をしてるんだ」一人が尋ねた。驚いて顔をあげたシドは、こういった。「いや、じつは空き缶やビンを集めているんだ。娘が天性のすばらしい声をもっている、と皆がいってくれる。それで音楽学校にやりたい、と思うんだが、金がなくてね。それでこうして毎試合後、将来の学費作りの足しに空き缶、空きビン集めをやっているんだ」。・・・中略・・・・
すぐ「俺たちにも手伝わせてもらおうか」と、フィリーズの全選手が言ったというのだから、ジェラルディンの美声がただごとでなかったのが知れる。恐らく選手たちはオペラやクラシック音楽に関心をもつほどの教養には無縁であったに違いない。しかし「二割五分の選手は練習や指導で作れても、三割打者は作れない」という才能の戦いの場に生きていた。生まれついての才能の大切さ、かけがえのなさは自分の職業を通じて理解していたはずだ。でなければ埋もれた才能を世にだしてやろうではないかとの合意が、こうも簡単に生まれるはずがない。
後はいかにもアメリカ的な夢物語になる。フィラデルフィアの夕日を背に選手全員の廃品回収が日課になり、その後押しでジェラルディンは音楽学校に入学する。才能を認められてオペラの本場イタリアでも演技。そして故郷に凱旋し、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で長い間プリマドンナとして君臨した。
世紀のプリマドンナ誕生の影にあった世紀末の大リーガーたちの心意気。野球と歌劇とジャンルは違っても、ともに高度なプロ意識を要求する”芸術”の幸せな結びつきであった
※ジェラルディン・ファーラー Geraldine Farrar
(1882.2/28〜1967.3/11)
マサチューセッツ州メルローズ出身。幼少の頃フランスに渡りパリからベルリンへ。1902年ベルリン・ローヤルオペラの舞台で「フアウスト」のマーガレッタ役でデビュー。
其の後ニューヨークに渡りメトロポリタン・オペラに出演。歌劇界で名声を得るまでになりました。映画界へも進出した彼女は、「カルメン」のヒロインで映画女優としても非凡な才能を有していることを認められつぎつぎとオファーが。俳優のルー・テルジャンとは夫でもあり共演者。

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演壇の上でも滑り込みをかました”布教者”
ビリー・サンデー Billy Sunday ”The Evangelist”
1862〜1935 実働1883〜1890(8年)
生涯打率.248 本塁打12本 打点王170 盗塁246

当時としてはまだ珍しかった右投げ左打ち、外野手。南北戦争の戦禍で幼くして両親を亡くし、孤児として育ったサンデーは少年時代は野球ばかりやっていたと言う。21歳でキャップ・アンソンの率いるCHIホワイトソックスに見出され、俊足と、それを活かした守備力で、チームの86年のリーグ制覇に貢献した。彼は「自警消防団で、消防の馬車に遅れを取るまいと毎日走っていたら足が速くなった」とアンソンに語った。
90年には84盗塁を記録したがその年限りで引退。なんと彼は伝道師になった。初期の大リーガーの例に漏れず、贅沢三昧の暮らしをしていたサンデーがなぜ布教の道に入ったかは謎である。ここにも数々の伝説があるのだが、もっとも信憑性のある説は、同僚の選手とシカゴの貧民街で酔いつぶれていたときに、救世軍の楽隊が福音歌を演奏しながら行進してきた、というもの。この音楽にひどく感動したサンデーは同僚にこう言った。「おれはイエス・キリストのもとへ行く。俺たちは分かれ道に来たんだよ」。
さて、しばらくは伝道師到来のポスター貼りなどの雑用をこなしていたサンデーだが、その精力的な仕事振りが評価され、演説を任せられるようになる。しばらくは普通に演説していたサンデーだが、聴衆に判りやすい演説をしようと、元大リーガーらしいアクションや熱血な弁を駆使するようになった。
眼に見えない悪魔を相手にボクシングを始めたり、天国の門に滑り込もうとする罪人を演じて演題の上でスライディングをしたりした。そのために彼の「舞台」の上にはグリースを塗ってあったという。
やがて彼は脅威の伝道者となり、幾千人もの聴衆を集めるようになったという。有名になり、暮らしの心配がなくなっても彼は努力を怠ることはなかったそうだ。
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大なるものその動きは細やか、パワフルな”ビッグ・ダン”
ダン・ブロウザーズ ”Big Dan” Brouthers
1858〜1932 実働1879〜1896、1904(19年)
生涯打率.342 本塁打106 打点1296 盗塁256
首位打者4回 本塁打王2回 打点王2回 1945年殿堂入り

左投げ左打ち、一塁手、外野手。3年目の81年にレギュラーを取りいきなり本塁打王。その後はNLの代表的な強打者となる。口ひげと非常に大きな体格がトレードマークとなった。ナ・リーグのほかにプレイヤーズ・リーグ((以下PL、ナ・リーグ球団の賃金の安さに溜まりかねたスター選手たちが結託して作ったリーグ。1890年のみの活動)やアメリカン・アソシエーション(以下AA、1882年に発足したリーグ。ナ・リーグのフランチャイズがない都市に球団をもっていたので、91年まで永らえた)と3つのリーグを渡り歩いたが、打率が3割を切ることがなかった。また一塁手としても機敏な動きを見せたという。
ある試合でブロウザーズが場外本塁打を放ち、打球が当たった建物が崩れ死者が出てしまう、という19世紀野球に似つかわしくないパワフルなエピソードも残る。96年をもって引退したが、1904年に元チームメイトであるジョン・マグローがNYジャイアンツの監督に就任すると、かつてのスターであるブロウザーズは長年の沈黙を破り現役復帰する。しかしこの年は5打数ノーヒットに終わった。
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46歳でメジャー復帰、野球を愛した元大工の執念
サム・トンプソン ”Big Sam” Thompson
1860〜1922 実働1885〜1898、1906(15年)
生涯打率.331 本塁打128 打点1299 盗塁229
首位打者1回 本塁打王2回 打点王2回 1974年殿堂入り

左投げ左打ち。外野手。この人も非常に大柄な選手である。大工だったトンプソンは24歳でデトロイト・ウルバリン(ナ・リーグ)に入り、強肩と強打でまたたくまにライトのポジションを勝ち取った。その後9シーズン続けて打率.300以上を打ち”デッド・ボール”時代(飛ばないボールの時代)の最強の長距離打者の一人に数えられる。1894年のPHIフィリーズではデラハンティーと並ぶ.407を打ち、4割3人の異常強力打線を支えた(.399の選手もいて、チーム打率は.349)。
1896年に不運の負傷を追ったトンプソンは、翌年と翌翌年のシーズンを棒に振り引退を決意する。19世紀が終わった段階で、彼の生涯長打率は2位。生涯打点も3位だった。
しかし野球への想いは絶ちがたく、1906年に46歳で数ゲームだけDETに復帰する(この時のチーム名はすでにタイガースに変わっていた)。
74年にベテラン委員会の投票で殿堂入り。
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19世紀最強打者の栄光と謎の死
エド・デラハンティー ”Big Ed” Delahanty
1867〜1903 実働1888〜1903(16年)
生涯打率.346 本塁打101 打点1464 盗塁455
首位打者1回(打率.400以上3回) 本塁打王2回 打点王3回 盗塁王1回 45年殿堂入り

19世紀の代表的な強打者のひとり。また、5人兄弟全員が大リーガーになる、史上まれにみる大リーグ兄弟の長男である。右投げ右打ちで、ポジションはほぼ毎年内外野のほとんどを守っていた。186センチと、19世紀としては相当な大柄な選手であったことでも想像できる通り、通算本塁打がこの時代の選手のなかでは非常に多い。そのうえで「ヒューマン・グラスホッパー」の異名を取る敏捷さも併せ持っていた。
ハンサムでアイルランド系らしい、笑顔をいつも浮かべた青年だったデラハンティだが、スリルやアルコールに目がなかった。この性質が彼の成功と、そして破滅の原因になるのであるが・・・・・。
長じて野球選手になるも、PHIフィリーズでデビューの年は73試合に出場してなんと47個ものエラーを量産してしまううえに、打率も.228という散々な成績に終わる。しかし持ち前の闘争心で2年目以降は打率も急激に伸ばし、短気さが幸いした果断な走塁とあいまって、自分が観客にスリルを与える立場になる。メジャー3年目はプレイヤーズリーグに移るが、翌年またフィリーズに復帰、1901年までナ・リーグを代表する打者として君臨する。1894年のフィリーズはチーム打率.349という空前にして恐らく絶後の成績を残すが、その打線にあってもデラハンティーは打率.407とチームトップとなる(首位打者はBOSビーンイーターズのヒュー・ダフィー選手の.447)。また、96年には史上二人目となる一試合4本塁打(全部ランニングホームラン)を記録。
さて、1902年からア・リーグのWSHセネターズに移籍するのだが、この頃から生活の破綻振りが表面化。アルコール好きのせいでの借金や、離婚問題が序々にデラハンティーのプレーと精神を蝕んでゆく。
03年の7月2日、突然ずべての終わりがやってくる。ずっと会っていなかった夫人に会いに行こうと思い、デラハンティーはシカゴ発ニューヨーク行きのパブ列車に乗り込む。しかしつい泥酔してしまった彼は、ナイアガラの滝のカナダ側の駅で無理やり列車を降ろされてしまう。ここでデラハンティーは滝に転落死するという悲劇的な最期を遂げるのだが、列車を少し追いかけて足を滑らせたとも、その直前の夜警の問いかけには明瞭に答えていたとも言われている。
一週間後、デラハンティーの遺体はナイアガラの滝の下流で見つかる。ダイヤモンドのタイピンや所持金がなくなっていた事から、彼の弟のフランクは「兄の死には何か事故以外の要因がある」と信じていた。
1945年に、野球殿堂に世紀の変わり目の選手がいないことを懸念したベテラン委員会の投票により、ダン・ブロウザーズら7選手とともに栄誉の殿堂に入ることができた。
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権利を求めて戦った「五年間の王」
エイモス・ルージー Amos Rusie ”The Hoosier Thunderbolt”
1871〜1942 実働1889〜1895、1887〜1888、1901(10年間)
生涯成績245勝147敗 防御率3.07 投球回数3769.7回
防御率1位2回、最多勝利投手1回、最多奪三振5回、1977年殿堂入り

右投げ右打ち。19世紀最大の速球投手と言われている。1893年、バッテリー間の距離が従来の15.2メートルから18.4メートルに改定されたが、ルージーの速球の威力があまりにも凄まじかったのが改定の一因とも言われている。落ちる変化球もまだなく、大物打ちの打者も少なかった時代にあって2年連続300奪三振と圧倒的な力を見せ付けたが、バッテリー間が近かったにも関わらず1890年には289四球を記録してしまう荒れ球投手であった。
速球投手としてならした一方でルージーは、自らの選手としての権利のためにオーナーたちに立ち向かった最初の選手としても記憶されている。
インディアナポリスで石工の息子として生まれたルージーは、成長すると学校を辞め工場で働くようになる。その会社の野球チームの外野手としてプレーしていたある日、たまたまマウンドに上がるともの凄い速球を披露した。まもなく一気に頭角をあらわしたルージーはナ・リーグのインディアナポリス球団と契約する。これが激動のプロ野球人生のスタートであった。
翌年、PLやAAに対抗するにはニューヨークのフランチャイズを強化するべきと考えたナ・リーグ首脳は、インディアナポリスの優秀な選手たちを強引にNYジャイアンツに移籍させた。さてPLやAAは財政難で消滅していくのであるが、ナ・リーグもまた、その強引な手法をファンに嫌われる。
そんな状況の野球界だったが、ルージーの速球の凄まじさはNYのファンの耳目をひきつけた。90年は29勝34敗だったが、341の奪三振というナ・リーグの新記録を作る。また四球は289も出してしまったが、それでも防御率は2.56.、その後も四球の多さは彼の投球の特徴であり続けたが、そのためにファンが失望することはなかった。
「インディアナのサンダーボルト」というルージーのあだ名は、NYの劇場のセリフの中や人々の会話にのぼり、出版物のモデルとしてたびたび使われた。また「デッドボールを受けた打者が4日も昏倒した」など、彼の速球の凄まじさを伝えるエピドードもあまりにも多い。ルール改正があった93年以降やや勢いは衰えたが、その分カーブがうまくなり「世界一の投手」としての名声は保ち続けた。女優リリアン・ラッセルの想われ人であったとも言われまさにNYの英雄だった。
しかし未だ財政難はリーグや球団を襲い続けた。ルージーが所属したジャイアンツも例外ではなく、1892年には一時的にルージーを解雇して賃金をカットするという暴挙にすら及んでいた。保留条項があったため、ジャイアンツのオーナーのアンドリュー・フリードマンはルージーが他の球団と交渉するは思っていなかったのだが、オーナーのビジョンに反してルージーはシカゴ・カブスとの交渉の席に着く。吝嗇なフリードマンはこの場はどうにか納めてルージーを慰留するが、当然この一件は選手とオーナーの関係をさらに悪化させる原因になった。
さらに96年ののシーズン前、フリードマンは投手のルージーに対して「攻撃面で全力を尽くさなかったため」と非難し、なんと年棒2,500ドルを提示する。92年にカブスはルージーに年棒6,000ドルと2,500ドルのボーナスを提示していたのにも関わらず、である。この条件に到底同意は出来ないルージーは契約をせず、シーズン終了後についにフリードマンを訴えた。内容は5,000ドルをフリードマンに要求するものである。これは当時、NYの街では大変な騒ぎになり、フリードマンを非難する動きが強まった。ファンに対して球場にゲームを見に行くことをボイコットしようと訴える動きすらあったという。他チームのオーナーたちは、ルージーの訴えが法廷にでることで保留条項などが法に触れてしま可能性を懸念し、この旧態依然の制度撤廃のうきめを見ることを恐れていた。実際に選手の労働条件を改善しなければならないと考えていた識者もおり、気運はルージーの側にも傾きつつあった。オーナーたちはジャイアンツのオーナーのフリードマンに、ルージーの訴えが公の場に明るみになる前にルージーを懐柔するよう説得したが、頭が古いフリードマンは、選手の反撃に対して怒り心頭であり、言うことを当初聞こうとはしなかった。しかしメディアを利用して自らの訴えを世に知らしめることのできる時代の選手ではなかったルージー、彼の周りだけでは反対者も多く、最終的には3,000ドルを掴まされてオーナーたちの言いなりにならなくてはならなかった。
こののち、我々は権利意識をもってオーナーに対抗する選手の出現を1969年まで待たなくてはならないことになる。本人の意思を無視して奴隷のように他の土地や他人の手に渡ることに反対したカージナルスのカート・フラッド外野手が、保留条項は独占禁止法違反であると訴えて厚い壁に小さな風穴をあけるのに、ルージーは70年以上先んじていたのである(フラッドは敗訴も、1976年に選手側がフリーエージェント権を得る偉大な一歩になった)。
しかしフラッドが裁判に訴えたことで選手生命を縮めたように、ルージーもこの後は燃え尽きたかのようになってしまう。1897年と翌98年はプレーするもその後の2年は故障でまったくの棒に振り、1901年でトレードされた先のCINレッヅで3試合投げて滅多打ちにあって引退。ちなみに交換でジャイアンツにやってきたのは後の大投手クリスティー・マシューソンである。
引退後のフラッドはポロ・グラウンドの責任者なども勤めたが、やや大不況にも翻弄され、やはり激動の後半生を送った。彼の死後30年余りが経った1976年に選手側がフリーエージェントの権利を獲得すると、人々は彼を思い出した。翌年、ベテラン委員会の投票で殿堂入りしたルージーは永遠の勝利投手となった。
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19世紀でも脅威?年間37敗投手・・・(苦笑)
ジョージ・カップ George Cobb
1865〜1926 実働1892(1年間)
生涯成績10勝37敗 防御率4.86 投球回数394回
投手。投打とも利き手はわかっていない。メジャー在籍は1892年の1シーズンのみ。つまり生涯成績が年間成績である。シーズン37敗・・・。20世紀以降の投手のシーズン最多敗戦記録は日米ともに29である。なので個人的には「不滅の記録をもつ、もう一人のカップ(=Cobb)」と思っている。しかし・・・数字といい、名前といい因果な男である。存在自体がネタである。このカップさん、調べても成績以外のエピソードや経歴は何もわかりませんでした、許して下さい。
ラドバーンの記事でも書かせていただいたが、まだ多くのチームが2人程度のレギュラー投手でシーズンの大半を投げていた時代である。カップは37も負けるまで投げ続けたのだから、あるいは日本一の年は活躍した大洋ホエールズの権藤正利投手(28連敗の日本記録保持者。1956年は0勝15敗)のように投手としての見所はあったのかも知れない。単順にチームが弱くてこのカップ投手も負け数を伸ばしたかも可能性もある。その場合、比較の対象になるのは彼と同じチームの投手たちになるので他の投手もみてみよう。この投手が在籍したボルティモア・オリオールズ(現存する同名のチームとは別のチームです)の92年の投手の投球回数はこのカップが394回投げて、もう一人のレギュラー投手であるマクマホン投手が397回、ビックリー投手が176回、バフィントン投手が97回。さてマクマホン投手の年間成績は19勝25敗、防御率3.24・・・・。いきなりまともな成績だ。ビックリー投手は8勝10敗、防御率3.53.。勝率が5割に近い・・・(笑)。カップの成績のみが極端に悪いのは気のせいだろうか・・・・。チームが56勝91敗の借金35、カップは10勝37敗で一人で借金27.・・・・。なぜこの投手は試合に出ていたのか謎である。
なにか判りしだい、この記事は追記いたします。
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44年後にも蘇った史上最高の狙撃者
”ウィー”・ウィリー・キーラー ”Wee"William Henry Keeler
1872〜1923 実働1892〜1910(19年)
生涯打率.341 本塁打33 打点810 盗塁495
首位打者2回(打率.400以上1回) 得点王1回 39年殿堂入り

左投げ左打ち、外野手。ニューヨークのブルックリンの生まれ。92年にこの礼儀正しく親しみやすい若者は、20歳で地元ニューヨークのジャイアンツに入団。94年からはボルティモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係の球団、現在のヤンキースの前身)籍を置く。
身長が163センチだったとも、166センチだったとも言われる史上有数の小型選手で、ニックネームは「ほんのわずか」という意味の”ウィー”。
歴史上で最も狙い撃ちがうまかった打者とされている。打撃のコツを尋ねられたときに答えた”Hit‘em where they ain‘t”という回答が有名である。さらにはバントヒットの名手でもあり、内野の土の硬いボルティモア本拠地のユニオン・パークでは、グラウンドにゴロを強くたたきつけて野手の頭越えを狙う打法−ボルティモア・チョップを実践した。攻撃の幅の広い選手で、ビル・スタームは「これまでに存在した最もワンダフルな打者だ」と評している。バットコントロールも非常にたくみで殿堂入りの名打者であるサム・クロフォードをして、「キーラーは常にバットの正しい向きで打撃をしている」と感嘆さしめるほどだった。
通算打率.341は史上14位でもちろん素晴しいのだが、なんとキーラーは、1900年を終えた段階、つまり19世紀が終わった時点では.381という生涯バッティングアベレージを残していた。当然、当時の歴代最高である。現在までの最高記録である8年連続200本安打も彼によるものだ。
さて、それほどまでの技量を誇ったキーラーだが、ボルティモア球団から、1899年に突如としてブルックリン・スーパーバスに移籍することになってしまう。現在の感覚では考えにくいことだが、ボルティモアとブルックリンの球団のオーナーは同一人物で、優勝争いをしていたブルックリンにオーナーが夢中になってしまい、ボルティモアの有力選手たちをごっそり移籍させてしまったのだ。キーラーも加入したブルックリンが優勝したのはいいが、ボルティモア球団は哀れ解散の憂き目となってしまった。
その後、ボルティモア・オリオールズが1901年に新しく出来たアメリカン・リーグのNYのフランチャイズ球団ヤンキース(当時ハイランダース)として生まれ変わると、キーラーは、1888年に定められた年俸上限の1万ドルという最高条件でハイランダースに移籍することになる。
キーラーはまた、1897年に打ち立てた44試合連続安打という大リーグ記録をもっていた。これは1941年にあのジョー・ディマジオに破られるまで残る記録であったわけだが、当時人気絶頂(というより現在も史上最高の人気選手と言える)のディマジオの連続試合安打記録が20世紀記録を超えた頃、キーラーの名もまたアメリカの野球ファンの記憶に蘇った。ちょうど2004年のシーズン最多安打に挑戦したイチローに対するジョージ・シスラーのように考えて頂いて間違いはないと思う。
引退後はボストン・ブレーブスのスカウトになったが、キーラーの人柄が集める尊敬は変わらなかったようだ。


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カーブよりも楽曲で名を残した優しいエース
ドック・ホワイト Guy Harris”Doc” White
1879〜1969 実働1901〜1913(13年間)
生涯成績189勝159敗 防御率2.39 投球回数3041回
防御率1位 2回

投手。左投げ左打ち。「ドック・ホワイト」、この西部劇のガンマンのような名前は、野球選手になる前は歯科学校に通っていたためである。メジャー1年目から自慢のカーブを武器に14勝をあげ、CHIホワイトソックスに移ってからの1904年は5連続完封を記録。この時代の野球は長打の危険性が少なかったためか、総じて投手の与四球率が現在より低いのだが、それにしてもホワイトは特筆すべきコントロールピッチャーだった。06年は65イニング連続無四球も記録。極度の貧打にあえぎ”Hitress wonder”(チーム打率.230、年間本塁打はなんと6という体たらく)と呼ばれたホワイトソックスの世界王者獲得に大きく貢献した。
現役中から、ホワイトはバイオリン奏者、ソングライターとして活動しており、1910年には、後の高名な野球記者そして作家になるリング・ラードナーとの共作”
Little Puff of Smoke, Goodnight,”がベストセラーになっている(この曲名で検索していただくとmidiなどを聴く事もできますので、興味がある方は試してみてください)。ホワイトは他にも”Gee It’s a Wonderfull game”など少なくとも3曲を残していると言われている。
現役を引退したホワイトは大学のコーチを経験し、その後は旅をしながら布教する牧師になった。
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19歳で残してしまった永遠の汚名
フレッド・マークル Fred Markle
1888〜1956 実働1907〜1920、1925〜1926(16年)
生涯打率.273 本塁打60 打点733 盗塁272

右投げ右打ち 一塁手。まずは有名な「マークル事件」から書かせていただく。
NYジャイアンツは、1908年9月23日、優勝を賭けたカブスとの試合を行っていた。1−1で向かえた9回の裏、ジャイアンツは二死で三塁にマコーミック、一塁のこのマークルという絶好のチャンスを迎えた。ここで代打のブリドウエルはセンター前にヒット。ジャイアンツはサヨナラ勝ちという訳でポロ・グラウンドには観衆がなだれ込んだ。一塁走者だったマークルは二塁には行かないで引き上げてしまったが、これをカブスの名遊撃手ティンカーは見逃さなかった。これまた名二塁手の同僚エヴァースに合図をしてボールを送った。エヴァースは二塁を踏んでマークルのアウトをアピール、これが認められて決勝点はフイになったが、試合は再開できる状況ではなく、引き分けとなってしまった。この後ジャイアンツが優勝すれば何の問題もなかったのだが、悪いことにジャイアンツとカブスは98勝55敗で並んでシーズンを終え、プレーオフの末、ジャイアンツは敗れ去ってしまう。この結果、9月28日のマークルのプレーは”マークルズ・ボナー”(マークルのボーンヘッド)として今に語り継がれるまでになった。
審判からの報告書を受け取ったナ・リーグのプリアム会長は、翌年ピストル自殺を遂げてしまう。この件に関して、ジャイアンツのマグロー監督やニューヨーク中のファンの非難を浴びていたので、「マークル事件」が自殺の原因ではないかとも言われる。
さて大事件を起こすプレーをしてしまったフレッド・マークルは、事件当時まだメジャー2年目で19歳だった。08年は38試合のみの出場。打率こそ.268を残していたが、若かったマークルの心には、この出来事が重くのしかかった。心無い非難、そして翌年のリーグ会長の死・・・・・。マークルは野球を辞める決意をしたが、監督のマグローはマークルに野球を続けるように説得。チームメートの大投手クリスティー・マシューソンらもマークルを励ました。マークルはこの段階で、プロ野球史上、もっとも素早く、もっとも大きい一塁手の一人だったのだ。ジャイアンツはマークルを獲得するのに2,500ドルを要していた。
その後、ロングヒッターではなかったマークルだが、ジャイアンツの4番打者として活躍を続けた。20盗塁以上のシーズンが8回あり、ジャイアンツがシーズン347盗塁のチーム年間記録を作った11年は自身もキャリア・ハイの49盗塁を記録。
とはいえ、勝負の運のないマークル。1912年のワールドシリーズでの試合のこと。延長10回、レッドソックスにいたトリス・スピーカーが一塁側にファールフライを打ち上げた。しかし一塁手マークルと捕手のチーフ・マイヤーズがお見合いをしてこのフライを取らなかった。打ち直しのスピーカーは同点タイムリーを放ち、この試合をレッドソックスの勝利に導く。次の試合も敗れたジャイアンツはレッドソックススにワールドタイトルを持っていかれてしまう。その後ブルックリンやCHIカブスでもワールドシリーズに出たマークルは、ジャイアンツ時代とあわせて5度もワールドシリーズに出場したのだが、ついにワールドチャンピオンになることはなかった。
実は大正2年(1913年)に「世界周遊野球チーム」の一員として来日しているマークル。この来日シリーズには前年のワールドシリーズで因縁あるプレーをしたトリス・スピーカーもゲスト選手として参加している。12月7日、三田で行われたゲームのマークルとスピーカーの活躍に関して、翌日の毎日新聞は次のように書いている。
「午後の巨人軍対白靴下軍第2回戦においてマークル(巨)のホームランは左翼の垣根を超えて球は芝から麻布まで届いたまさにわが野球界レコード破りのロングヒット(大飛球)である。これに対して右翼の森の中に3本の本塁打を打ち込んだ快打手スピーカー(白)の勇姿は永久にわが野球界に深い印象を刻み付けることであろう」
マークルは1920年以降、インターナショナル・リーグというマイナーリーグの球団の監督を数年していたが、25年にメジャー復帰。翌年限りで引退している。
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実在したフォレスト・ガンプか?悪魔に魂を売って栄華を得た者か?
ヴィクトリー・ファウスト Charlie Victer"Victory" Faust
1880〜1915 実働1911、(1年)
生涯防御率4.50 0勝0敗、投球回数2回

投手。右投げ。打席は不明。
カンサスのドイツ人農夫ジョン・ファウストに生まれた6人兄弟の長男。父親の訛りの激しさを受け継いでしまい、また精神的にもハンディキャップがあったと言われている。
彼の人生が一変したのは30歳になっていた1911年。旅行先で易者に「君がジャイアンツに加われば、ジャイアンツは優勝するだろう」と予言されてからだ。この言葉を受けたファウストは「ジャイアンツを優勝させるために、自分をベンチに入れてほしい」とジャイアンツ監督のジョン・マグローにアピールする。
なにぶん、心理学にすらオカルティックな要素が多く含まれていた時代のこと。マグローも彼をお守りとして思うようになり、野球選手でもなんでもなかったファウストを8月11日から本当にベンチに入れてしまう。
現在の感覚からすれば本当に信じがたい話だが、クリスティー・マシューソンやルーブ・マーカードといった当時のジャイアンツのメンバーはファウストのことを肯定的に考えていたというから面白い。というのも、この年のジャイアンツは春先からパっとしない戦いぶりを続けていたが、ファウスト加入後は50試合でなんと40勝という凄まじい勝ちっぷりであっさりと優勝してしまったからだ。一般人レベルの野球しかできないファウストはもちろん試合で活躍したわけではない。それでもファウスト加入後のジャイアンツは確かに勝ちまくったのだ。
ラッキーボーイ・ファウストをファンももてはやし、デーモン・ランヨンのような当時影響力を誇った記者もファウストをたたえた。ジャイアンツの優勝が決定してからはファウストも試合に出て、2イニングに登板し4.50の防御率という人並みの数字を残している。もっともこれは、ファウストの試合出場というマグローの企画した「アトラクション」に協力した対戦相手ドジャースの面々が、「ガラスも割れない」威力のファウストの直球を意図的に打ち損ねたためらしい。余勢をかって打席にも立ったファウストは死球で出塁すると、二盗三盗を次々に決めた。ジャイアンツが11年に打ち立てた347チーム盗塁のうち、2つはファウストが寄与したものだ。この年のジャイアンツはワールドシリーズでは敗北するが、ファウストの「神通力」は疑われることはなかったようだ。
さてわが世の春を謳歌したファウストだったが、1912年以後は30歳台前半という若さで痴呆にかかってしまう。もちろんこれは当時の見立てなので、現在の医学の見地でも同じ診断になるかは判らない。そして精神病院に入院した彼は1915年に結核で亡くなる。父親ジョンに生まれた6人兄弟のうち、4人までは30台以前で亡くなったらしいので、あるいは短命な家系だったのだろうか。
いかにも夢物語のようなファウストの人生は、ノスタルジーや神秘をもって語られることが多いようだ。その擦り切れていない精神性から「フォレスト・ガンプの原型」といわれることもある。1911年のジャイアンツの唐突な快進撃には、ファウストの存在がベンチの雰囲気を救った、くらいの効果は少なくともあったのであろう。