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変化球の起源は?




調査協力:卯氏





         野球ファンなら、一度は関心を持つ”魔球”!
 現在、当たり前のように投げられる変化球も、発明当初は”魔球”と呼ばれていたことがあったりします♪ここでは、それら変化球の球種ごとの起源を考えていきます。



・カーブ

 よく言われるように、発明・実践投入ともにウイリアム・”キャンディ”・カミングスが最初とされる。書物によっては「ブルックリンの家の裏庭で変化に気がついた」とか「浜辺で石を投げていて」などと紹介されている。ナショナル・アソシエーション(初のプロ野球リーグ)の球団に入団したカミングスは、カーブが猛威を奮い4年間で124勝を挙げる。その後に、始まったばかりの「真の大リーグ」ナショナル・リーグに参加。2年間で21勝22敗に留まり、29歳で引退。しかし同僚のトミー・ボンドにカーブを伝授し、ボンドは3年連続40勝の大活躍。
 カーブを広めた功績が評価され、カミングスは栄誉の殿堂入りを果たしている。

William"Candy"Cummings

1848〜1924   実働‘72〜77(6年間)
生涯成績145勝94敗(NNとNL通算)
防御率 2.49 投球回数2149回







・チェンジアップ
  カーブの次に起源の古い変化球であると言える。まだ投手の投げ方が下手投げしか認められていなかった時代から活躍し、史上3人目の300勝投手になったティム・キーフが発明したとされている。キーフは、投手の足かせになるルールが多かった時代にあって、頭脳やデータを駆使して投球を展開した、いわゆる「データ野球」の元祖とされている。このタイミングをはずす球はそうしたキーフの苦心の賜物だろう。

”Smiling Tim” Keefe

1857〜1933 実働1880〜1893(14年間)
生涯成績342勝225敗
防御率2.62 投球回数5047.7回







・シンカー
  NYジャイアンツの英雄で、373勝を挙げたクリスティ・マシューソンが投げていた、カーブと反対の変化をした「フェイドアウェー」という球がこれではないかと考えれている。この球はマシューソン自身が「負担がかかるので滅多に投げられない」と語っている。左腕のスクリューボールの元祖とされるのはジャイアンツのマシューソンの後輩で、やはり球界のエースとなったカール・ハッベル(1928〜1943までの16年間で、253勝154敗、防御率2.98)。しかしながらこれも「最初にスクリューを主な武器として活躍した」のがハッベルに過ぎないようだ。ルーブ・ワデル(1897〜1910までの13年間で193勝、防御率2.16)のようにそれ以前にスクリューのようなボールを投げていた投手もいる。

Christy"The big six"Mathewson

1880〜1925  実働1900〜1916(17年間)
生涯成績373勝188敗
防御率 2.13 投球回数4781.2回







・フォーク
  かの「魔球王」杉下茂氏が参考にしたと言うのが、ヤンキースの主軸として活躍したハーブ・フェノック(1912年から34年までの22年間で240勝)のフォークボール。しかしこの球は杉下の投げたフォークがそうであったように、変化は大きいが速度はそれほどでないパームボールのような球であったらしい。
  フォークを早期に投げた投手にはほかには、”ブレット”・ジョー・ブッシュ投手がいて1920年とされている。そうであればフェノックより少し早い。ブッシュは当初は荒れ球投手であったが、この球を身につけて生涯195勝まで記録を伸ばしている(183敗、1912〜1928年)。また第一次世界大戦で戦死したタイガースのボブ・トロイ投手(大リーグ登板は1試合だけ)のほうが早くフォークを投げていた、とも言われるようだ。
  ちなみにカップは自伝で、1907年のワールドシリーズで対戦したPITパイレーツの「三本指の」モデカイ・ブラウン投手(1903〜16年までの14年間で239勝129敗、防御率2.06)の投げる大きく落ちる球を「フォーク」と呼んでいる。多くの書物でブラウンの投げる球はカーブとしているが、ブラウンは7歳のときに叔父の農場でトウモロコシ粉砕機に右手を突っ込み、人差し指を切断し、小指も先を切断するという重傷を負っている。以後は中指と親指もそれぞれ曲がったままとつぶれたままになったそうだ(※1)。指が少ない、あるいは曲がった状態では横に曲がる球は投げにくいのは堀内恒夫氏の体験談でも有名だ。特にブラウンの状態ではまともなカーブの握りができそうにはない。人差し指と中指でボールをはさむ典型的なフォークの握りも難しいであろうが、現在のプロ野球の投手でも親指と人差し指でボールをはさんで抜いて投げ「これがぼくのフォークです」という人もあるので、、あるいはブラウンも、フォークにかなり近い球を投げていた可能性もある。







・スライダー
  多くの書物ではボブ・フェラー(1936〜1956、266勝162敗)が1945年ごろに発明した、などという風に説明されている。しかし馬立勝氏と伊東一雄氏(※2)によれば、ジョージ”ブル”・ウール投手が1930年代に完成させたらしい。
  2005、1、12追記 ウールは1929年にタイガースの同僚の猛打者ハリー・ハイルマンの打撃練習中に初めてこの変化球を投げたと言う。それまでウールはカーブと直球を抜群のスタミナで投げて150勝以上をマークしていたが、当時はすでに球威に限りが見え始めていたようだ。この横にすべる球は、ウールを200勝投手にさせる切り札になった。

George"TheBull"Uhle

1898〜1985  実働1919〜1936(17年間)
生涯成績200勝186敗
防御率 3.99 投球回数3119.7回







・ナックルボール

  1920年の「ブラックソックス事件」で永久追放されたエディー・シコット投手が最初に投げたのではないかと言われる。しかしここにも異説があり、シンカーの項目でも書いた大投手クリスティー・マシューソンが、学生時代(1900年以前)から投げていた「ドライ・スピッター」と呼ばれる球がナックルではないか、と。

Edward”knuckles"Ciccote

1884〜1869  実働1905〜1920(16年)
生涯成績208勝149敗
防御率 2.38 投球回数3223.3回







・SFF(スプリット・フィンガー・ファストボール)

  フォークのバリエーションである。一般的に言われるのが、マイク・スコットにこの球を伝授したロジャー・クレイグが発明したという話。「オフの少年野球教室で子供たちに教える、肘などに負担を与えない球はないか」と考案。これを教わったスコットは85年に18勝。以後は20勝もマークし、近年最も猛威を振るった変化球として記憶に新しい。で、あるが・・・・・・・・
  ここはスライダーの項で出した馬立・伊東両氏の共著の一文をそのままお借りしよう。
「1910年代のジャイアンツの200勝投手、ルーブ・マーカードが投げていたとされるのがこの球だ、と野球史家が言い出した。恐らくこの言い分は正しいに違いない。それほどさかのぼらなくとも、70年代から80年代にかけて12年間で300セーブをあげた名救援投手ブルース・スーターが投げていた早いフォークボールがこれだった」

Rube Marquard


1886〜1980  実働1908〜1925(18年間)
生涯成績201勝177敗
防御率 3.08 投球回数3306.7回








・スピットボールなどの現在では禁止されている変化球
  唾液をつけて投げるスピットボールや、ボールに傷をつけてなげるシャイン・ボール、泥をつけてなげるマッド・ボールなどがあるが、一くくりに「スピッター」と言われることが多い。その変化はとにかく凄まじいと伝えられ、1920年になって「それまでこれらのボールを投げていた投手は許されるが、それ以外の投手は禁止」とあいなった。衛生上の理由だそうである。
 
  多くの書物においては、エルマー・”スピットボール”・ストリックレット投手が大リーグに広めたと紹介されている。ストリックレットはマイナーリーガーだった1902年に、外野手のジョージ・ヒルデブラントに教わった。ヒルデブラントや何人かの選手たちは、雨の日のボールや傷がついたボールの異常な変化に気がついていた、というわけだ。そうしてこの球を会得して1904年にメジャーに昇格したストリックレットから、他の投手にも広まるようになった。ストリックレットと、シカゴ・ホワイトソックスで相部屋になったエド・ウォルシュは、このボールを武器に40勝投手にもなり殿堂に入っている。
  ウォルシュと同じく40勝投手になったジャック・チェスボロ(ニューヨーク・ハイランダーズ)も初期のスピッター投手として有名である。「チェスボロもストリックレットに教わった」と紹介する海外ウェブサイトがあるが、私はこれは違うのではないかと申し上げたい。チェスボロはストリックレットとは別種のスピッターを投げていたのではないか、と。

  その理由は2つある。
  ひとつはストリックレットとチェスボロの共通点がないことである。ストリックレットはメジャーキャリアをホワイトソックスでスタートさせたあと、ナショナル・リーグのブルックリンに移っている。チェスボロは1903年以降はアメリカン・リーグのみのキャリアである。この当時、オーナー側に、選手の保留条項という保留権を独占するのに有利な条項があった。これは選手の望むサラリーが払えない、まだ経営基盤がしっかりしていない球団が多かったため仕方のない部分もあった。そういう訳で現代の選手より移籍の可能性が少なかった選手たちは、敵の選手と非常な敵対関係になることも少なくなかった。さらにア・ナ両リーグは1903年以前はワールドシリーズも行っておらず、オールスターゲームもまだない。交流の機会があるとすれば、もう片方のリーグに所属するチームから引き抜きの声がかかるときくらいのものである。
  もうひとつの理由は、チェスボロの全盛期が、ストリックレットのメジャー昇格以降とは重ならないことである。チェスボロは1903年以前も、28勝、21勝を挙げたシーズンがあり、ストリックレットが大リーグに昇格した1904年こそ41勝もしたが、以後は急速に勝ち星を減らしていく。
  以上の2点から私は、チェスボロはストリックレットと違う種類のスピッターを、ことによってはストリックレットより早く投げていたのではないかと考える。


Elmer”Spitball"Stricklett
1876〜1964  実働1904〜1907(4年間)
生涯成績35勝51敗
防御率 2.84 投球回数756.7回

”Happy Jack”Chesbro


1874〜1931 実働1899〜1909(11年間)
生涯成績198勝132敗
防御率 2.68 投球回数2896.7回


※1アメリカ野球学会選考『20世紀の偉大なる100人』 2000年    日本スポーツ出版社
※2馬立勝・伊東一雄 著『野球は言葉のスポーツ アメリカ人と野球』  1991 中公新書







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