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  19世紀(場合によっては第一次大戦前)の記録には、すばらしいものでありながら現在の公式記録とは認められていないものがあります。このコンテンツではそうした「神話」の時代の記録を振り返るとともに、当時と第一次大戦以降の野球の違いを考えていきます。

攻撃編(調査協力:卯氏)

オールドタイマーの記録の考察

・シーズン最高打率                                            
  まずは以下の表をみていただこう。                                            

順位

        選手名

打率

年度  

 打席

1.

ヒュー・ダフィー

.4397

1894

R

2.

ティップ・オニール

.4352

1887

R

3.

ロス・バーンズ

.4286

1876

R

4.

ナップ・ラジョイ

.4265

1901

R

5.

ウィリー・キーラー

.4238

1897

L

6.

ロジャース・ホーンスビー

.4235

1924

R

7.

ジョージ・シスラー

.4198

1922

L

8.

タイ・カップ

.4196

1911

L

9.

タック・ターナー

.4159

1894

B

10.

フレッド・ダンラップ

.4120

1884

R

 ※年度の太字は20世紀以降である。

  これは歴代のシーズン打率のベスト10である。多くの方がご存知のように1941年のテッド・ウイリアムスを最後として、現在まで60年以上4割打者は出ていないのであるが、とにかく上の表に見えるように歴代10位のうちの4人のみが20世紀以降の打者である。
  他のコンテンツに書いてきたように最初のプロ野球リーグであるナショナル・アソシエーションの設立が1871年、つまり大リーグにおける「19世紀」とはほんの30年あまりの期間に過ぎない。しかしながらシーズン打率の上位に関しては19世紀の打者が大半以上を占めていることがわかる。ちなみに表に掲載のうちの6割が19世紀の選手だが、これを歴代30位まで拡大して見てもやはり6割を19世紀の選手が占めている。いったいこれにはいかなる要因があるのであろうか・・・大別すると3つ程あるだろう。

1.物質による要因
  まず、グローブの出現が1875年である。グローブ無しで守備につくより、グローブをもって守備についたほうが断然守備効果があることを疑う方はいないだろう。この1871年当時のグローブというのは手袋の指の部分を切り取っただけのものであったが、その後捕手や一塁手を中心に15年程度で他の野球チームにも普及していった。
  ローマ軍は靴を採用したことにより他国の軍に長じる機動力を獲得できたと言われる。野球という名の戦争の靴はグローブと言えるだろう。しかしそのグローブも、最初のうちは使用する選手は白い目で見られたという。つまり「手にはめる道具を使うなど男らしくない」という言い分だ。なんと1890年代に入ってもグローブを使わない選手もいたほどである。さらに第一次大戦以前はポジションごとのグローブというのが未分化であった。
←どのポジションの選手もこんな剣道の小手の先端部みたいなグローブを使っていたのだ
(写真はパイレーツなどで活躍した20世紀初頭の名内野手H.ワグナー)。

  また、グラウンドの状況やボールの質というのも物質面の要因に含めることができるだろう。現在でもアジア多くの国々や欧州諸国のグラウンドは、大リーグや日本のグラウンドとは比べられない。こうした国々の球場での野球はイレギュラーバウンドが頻発し、アメリカや日本から流れ着いた投手が投げている場合は非常なストレスにさらされる。19世紀のリーグ経営自体がなりたつかどうかの瀬戸際では、球団の予算で球場の設備整理などにはお金はかけられるものではなかった。そんな状態ではグラウンドが良コンディションなはずもない。ボールの質自体も安定してはおらず、現在の野球よりもっよっぽど予期せぬ打球が多かった。
  グローブ、グラウンド、ボール。これらの要因が現在よりもよっぽど安打を生みやすい野球を形作っていたと考えられるだろう。

2.ルールの要因
  実は1890年近くまでは、現在から見るとよほど投手に不利なルールが多かった。ざっとあげてみよう。

・ボールは下から投げなくてはならない。
  これはアレクサンダー・カートライトが1845年に定めたルールであるのだが、1884年まで有効であった。つまり38年間もの間、投手はアンダースローしか許されなかったのである。

・スナップスローの禁止
  文字通り、手首を使っての投球が禁じられていた。このルールは1872年に撤廃されたが、投手を非常に苦しめたルールで、このせいで手首を捻挫した投手も多かった。またウイリアム・カミングスが最初に投げたカーブはこのルールの影響で、現在のような縦に割れるカーブではなく山なりの変化球だったと考えられていて、「カーブの起源はカミングスではない」と考える研究者のより所である。

・打者が投手に、高めか低めの投球を要求できた。
  打者が「高め」と投手に要求したら、投手はストライクゾーンの高め半分のボールで見逃しをとらないとストライクを得られなかった。個人的には、今回イチオシのトンデモルールである。ちなみにこの頃はファールをストライクと数えるルールがまだなかった。この「高め・低めルール」は1871年から1887年まで続いた。

  
恐らく当時の投手たちはこれらのルールを当たり前だと思っていただろうが、仮に現在復活したら野球のバランスを間違いなく崩壊させるルールばかりである。現在から見ると投手受難であったと言える。

3、技術的、戦略的要因
  技術的というのは、現在の野球で有効な、あるいは不可欠な技術が発明前だったということである。代表的なものに変化球がある。
  現在投げられている多くの変化球のルーツは1920年ころには投げられていたと考えられるが、さすがに19世紀までさかのぼると、投げられていた球種といえばせいぜいカーブとチェンジアップくらいのものである。攻撃する方から見ても、エンドランやバント、そしてそれらの応用技術、さらにはスライディングを含む走塁技術自体が未熟だったのでおあいこと言えないこともないが。
  次に述べる戦略的要因は、技術的な要因より決定的だ。
  投手起用に関する戦略であるが、1890年代中ごろまで各チームのエースクラスの投手はチームの年間全イニングの3分の一から半分程度を投げていた。現在のように一試合に投手が10人以上もベンチ入りするような時代ではなかったのである。ローテーションという概念がなかったわけではないがそれは2人ないし3人程度で持ち回りするものだったのだ。
  さらに投手の役割分担制は1950年代までなかった。19世紀には生涯に先発した試合の8割を完投した投手すらいたのである。




  さて、これらの大別3つの要因から、19世紀は打率が稼ぎやすい野球バランスだったと考えられる。ちなみに表のうちの歴代一位ヒュー・ダフィー選手の.440であるが、この年はその19世紀野球の集大成ともいえるような年で、打率トップ10の選手までが.370以上を打ち、リーグ全体の平均打率は3割を超えていた。
  また参考記録としてのぼることすらほとんどないと思うが、NA創立の1871年の首位打者”ロング”レビ・マイヤール選手のシーズン打率はなんと.492であった。この年は各チームの年間試合数が25〜30程度だったので、さすがに表の作成時には除外させていただいたが(笑)。




・シーズン本塁打の変遷
  19世紀の30年間で本塁打王の最低の本数は4、最大は27であった。また、1901年から19年までの本塁打王の最低が6、最高が29という状況のなかで、1920年にはこの本数がいきなり54本に達している。ここでは世紀の変わり目ではなく、1920年を本塁打バランスの変化の境目という前提で本塁打急増の様を見ていきたい。
  よく言われるのが、1920年以降はライブリー・ボール
(よく飛ぶボール)の導入とスピットボールなどの変則変化球(ボールに唾液を初めとする液体をつけたり、傷をつけたり泥をこすりつこえたりして急激な変化を生み出す変化球)の禁止によって本塁打が激増したと言われている。

さて以下の表は1915年から25年までの年度別本塁打を記したものである。

年度(リーグ)

氏名(所属チーム) 本数

氏名(所属チーム) 本数

1915 (NL AL)

G・クラバス (PHI)    24

B・ロス(TOT) 7

1916 (NL AL)

D・ロバートソン(NYG) 12

W・ピップ(NYY) 12

 

C・ウイリアムズ(CHC)

 

1917 (NL AL)

G・クラバス (PHI)    12

G・クラバス (PHI)   12

 

D・ロバートソン(NYG)

 

1918 (NL AL)

G・クラバス (PHI)    8

B・ルース (BOS)

 

 

T・ウォーカー(PHA)  11

1919 (NL AL)

G・クラバス (PHI)    12

B・ルース(BOS) 29

1920 (NL AL)

C・ウイリアムズ(PHI)  15

B・ルース (NYY)    54

1921 (NL AL)

G・ケリー(NYG)     23

B・ルース(NYY)    59

1922 (NL AL)

R・ホーンスビー(STL) 42

K・ウイリアムス(SLB) 39

1923 (NL AL)

C・ウイリアムズ (PHI)  41

B・ルース(NYY)    41

1924 (NL AL)

J・ファーマー(BRO)   27

B・ルース(NYY)    46

1925 (NL AL)

R・ホーンスビー (STL) 39

B・ミューゼル (NYY) 33


  ちなみに1919年以前で、シーズン本塁打が20を越えたことのある打者は6人しかいないが、1920年以降で本塁打王が20以下のラインで決定したのはその20年のナ・リーグだけ。その後もっとも低い数字で決定したのは1944年のア・リーグの22本である。
  また、「ライブリーボールが本当に20年から使われたのか?本塁打数が一気に伸びたのはゲーリッグやルースなど一部の打者だけではないのか?」という向きもあるのだが、確かにこの指摘のようにタイ・カップやトリス・スピーカー、エディー・コリンズと言った当時の有名な打者の多くは20年以降もそれほど本数は伸ばしていない。これはただ単に全盛期を過ぎてしまったこれらの打者たちが敢えて新時代向きの打法を導入しなかったためと考える。カップやスピーカーたちは自分で磨きをかけて獲得した打法を、20年代以降も捨てなかったのである。
 
  というわけで20年以降は全体的には本塁打は増えている。以下はア・ナ・両リーグの1915年から1925年までのリーグの総本塁打数の変遷である
(フェデラル・リーグは15年を持って消滅し、その後の比較の対象をもたないため割愛します)
 リーグ別年間総本塁打数(単位:本)

年度

ナ・リーグ

ア・リーグ

1915

225 

160 

1916

239 

144

1917

202

133

1918

139

96

1919

207 

240

1920

261

369

1921

460 

447

1922

530

525

1923

538

442

1924

499

397

1924

636

533


  この表を見る限りで、20年を境に明らかに両リーグ全体で本塁打が増えたというのが判っていただけると思う。「26年に飛ばないボールに変更された」という某ウェブサイトさんの書き込みをみたのだが、実は本塁打の増大は25年が天井ではなく、30年代にはなんと10年代の4倍にまで各球団の本塁打数が伸びえている。


・1913年以前の本塁打の意義
  ところで、「三冠王」という言葉がある。言うまでもなく本塁打王・首位打者・打点王の3つタイトルのすべてを同じ年度に取得した選手に与えれれる「尊称」である。その栄誉を得た選手が引き合いに出される時には、例えば「1967年に三冠王を達成したカール・ヤストレムスキー」のように枕詞のごとくこの言葉がついてまわる。
  しかしながら、1912年まではこの三冠を構成する打撃カテゴリーは首位打者・最多安打・得点()だったという事をご存知だろうか?1913年はア・ナ・両リーグの本塁打王がともにフィラデルフィアに本拠をおく球団の選手であった。すなわちアスレティックスのホームラン・ベイカー(12本)とフィリーズのギャビー・グラバス(19本)の両選手である。
  ホームラン・ベイカーは本名ジョン・フランクリン・ベイカー。1911年のNYジャイアンツとのシリーズで試合を決定づける本塁打を連発して、全米の野球ファンにホームランの威力をまざまざと見せ付けた。このシリーズの2戦目でベイカーは、ジャイアンツの若手実力派投手ルーブ・マーカード(後の200勝投手)から決勝本塁打を打った。ジャイアンツの天下第一の大投手クリスティー・マシューソンは「あそこでホームランになるようなボールを投げるなんて」と後輩の演じた失態に嘆息したが、ベイカーの打棒の次の被害者は外でもない、このマシューソンだった。ベイカーはマシューソンからも延長戦で決勝弾を放ちアスレティックスをワールド・チャンピオンに導いたのであった。
  一方のギャビー・クラバスも本塁打王6回という、当時第一級のホームラン打者である。14年の24本塁打はこの時点で20世紀最高であった。

←ギャビー・クラバス(左)、ホームラン・ベイカー(右)


  はてさて、本塁打がどうしてそれ以前は「三冠」の要素でありえなかったのか?理由は簡単である。本塁打が「発生」しにくかったからだ。暴論を承知で言えば、いかに素晴しい記録であっても「最多ノーヒットノーラン」のような表彰カテゴリーが存在しないのと同じことである。本塁打は当時はまだ、三塁打や二塁打と同じような「参考カテゴリー」のひとつに過ぎなかったのだ。
  なぜ本塁打が発生しにくかったかは冒頭でも紹介した、「ライブリー・ボールとの導入とスピット・ボールの禁止」の前だったことが大きな要因である。

  そして柵越えが難しかった条件下にあって、本サイトの主人公とも言うべきタイ・カップが「野球は柵の中で勝負をつけるよう意図されたスポーツで、走者と守備陣の駆け引きが野球の粋だ」と語ったように、本塁打と言えども野球場の中で・・・という時代が確かにあった。



※2004,11,8追記  打点が集計されたのは1907年からとのこと。正式に表彰対象となったのは1920年からのようです。1968年に「大リーグ特別野球記録委員会」が発足し、1906年以前の打点が集計され発表された。




・ランニング・ホームラン(インサイドパーク・ホームラン)の要因について
  現在、ホームランといえば、「ランニング」という修飾がつかない限りはフェンスを超える打球を示す。しかしながら、19世紀においてはホームランの大半が(現在で言うところの)ランニングホームランであった。また、20世紀には入っても10年代までは年間本塁打の3分の一程度がランニングホームランである。これはいったいなぜであろうか? この要因を考えるには、まず当時と現在の野球の質の違いを考えなくてはならない。

  このページで前述しているように、以前は現在とは違うボールが使われていた。現在使われているボールよりも飛ばないボールだ。1870年代頃までは力いっぱい投げても65メートルくらいしか飛ばないボールが使われていたし、その後も1920年頃までは芯にゴムを巻いていない、いわゆるデッドボールが使われていた。それがために守る側も長打の危険性が少なかったので、外野手陣は現在よりもよほど前を守っていた。攻撃側も長打はあまり期待できなかったので、前進守備の外野手からの送球と果断な走塁でかなりクロスプレーが多かったのだ。現在の外野手は年間に二桁程度の捕殺を記録すれば強肩とみなされるが、1919年以前の外野手では捕殺10というのはまったく平均的な数字に過ぎず、ことによっては25〜30を超える外野手も存在した。
  1920年代以降(もっと言えば1927年以降)は、アウトや場合によっては怪我の危険性がある積極走塁や盗塁を控え、柵越えの打球で一気に勝負を決める野球スタイルになっていく。その傾向は1950年代後半から60年代まで、つまりモーリス・ウイリスやルー・ブロックといったスピードスターが出現するまで特に偏重な傾向だった。ちなみにNA創立から現在までシーズン100盗塁を達成した選手は、2004年現在で延べ人数でちょうど20人いるが1920年代から50年代に達成した選手は一人もいない。まあ60年代以降でもウイリス、ブロック、リッキー・ヘンダーソン、ビンス・コールマンの4人しかいないわけだが。
  
  さて、本塁打について話を戻そう。上記のように1910年代以前の外野手は前に守備位置を取っていたわけであるが、こうした外野手の間を破って外野を転々とする打球がホームランになったりしたようだ。それにはグラウンドの広さも手伝っていた。かつての球場は現在のものよりよほど広い場合が多かったのだ。それが1910年頃になると各球団が住宅地の広い一角に球場を建てるようになった。この多くが現在の球場サイズに近い物に改装されていった。それ以前に建てられた球場は徐々に姿を消していったが、1910年代に建てられたものはフェンウェイパークなど現在も使われているものもあるし、タイガー・ズタジアムのように最近まで残っていたものも多い。球場の広さの変遷を、”球聖”タイ・カップのチームであるデトロイト・タイガースの本拠地を例にとって見てみよう。

 デトロイト・タイガース、歴代本拠地球場(単位:メートル)

施設名(使用年)

左翼

中堅

右翼

ネヴィン・フィールド(タイガー・スタジアム改装前)

104.9

142

112.5

タイガー・スタジアム(1912〜1948)

103.4

133.8

98.8

コメリカ・パーク(2000〜

104.9

127.7

100.3


  ちなみにボストン・ブレーブスが1952年まで使っていたブレーブス・フィールドは最大時で、両翼122メートル、中堅167メートルもあった。このサイズだった13年間に柵越えは7本しかなかったという。



  



この項の主要参考文献
・スポーツ・スピリット21 『メジャーリーグ100年「記録」の達人。』
                      ベースボールマガジン社 2002年   
・宇佐美陽 『大リーグと都市の物語』平凡社  2001年
         


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