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            野球の発展の推移 19世紀編

 ここでは19世紀の野球界の出来事をまとめております。私自身は本当は人間物語を通して物事を理解できればいいと思っているクチですが、やはり制度や体制の変遷の理解にはそれだけではカバーできない部分があるかと思います。と言うわけで自分の確認の為にも年表をまとめてみました。
 ここに年表を記した以上は、読んでくださる方のお役にも立てれば幸いです。


 1825(文政8)年 ●7/13 『デリー・ガゼット』紙にベースボールというゲームの対戦相手を募る最初の記事が載る。
 1834(天保5)年 ●イギリスでラウンダースと呼ばれていたゲームが、”THE BOOK OF SPORTS”と言う本(著者ロビン・カーバー)に「ベース」という名で載る。 
 1839(天保10)年 ●1908年の米野球委員会の発表によれば、後にメキシコ戦争などで活躍するアナザー・ダブルデイ将軍が、この年NYのクーパーズタウンで発明したとされる。しかし、「ダブルデイ発明説」は今日では否定されている。ダブルデイは守備の人数を制限し、決まったポジションにつかせる方法を考案している。
 1845(弘化2)年 ●9/23 NYの会社員アレキサンダー・J・カートライトが新ルールを定め、初のクラブチームであるNYニッカボッカーズを組織。他チームも結成され、カートライトのルールを採用した。
●10/22 『ニューヨーク・モーニング・ニュース』紙に最初の野球試合記事が載る。それによるとNYとブルックリンのメンバー8人ずつが「ベース」の試合を行い、24−4エース(得点の呼び方)でNYが勝利。試合後は両チームの選手たちはディナーの席についたとある。
 1848(弘化5・寛永元)年 ●バッターが一塁に着く前に一塁ベースの上にいる野手がボールを取った場合はアウトというルールができる。
 1849(寛永2)年 ●ショートのポジションが確立。初めて守ったのはこの2年前、カートライトのチームにいた医師ダニエル・アダムズ。外野からの送球の中継役として。1857年からダイヤモンドの広さが現在のものになり、ショートの重要性がました。
 1852(寛永5)年 ●NYニッカボッカーズ初のユニフォームの着用。帽子が麦わらぼうしだった。
 1853(寛永6)年 ●NYとブルックリンのライバル関係が始る。
 1854(寛永7、安政元)年 ●ボールの重さと大きさがルールで制定される。またこの頃からNYでたくさんのクラブができる。
 1857(安政4)年 ●5月、1試合9回というルールができる。従来はイニングに関わらず、21点を先取したチームの勝利だった。
 1858(安政5)年 ●25の野球クラブが、ナショナル・アソシエーション・オブ・ベースボール・プレイヤーズ(以下、NAOBP)を設立。
●7/20 ブルックリンとNYのオールスターチームが試合を行い、初めて入場料をとった(50セント)
この年、アンパイアが初めて登場。 
 1859(安政6)年 ●初めて大学対抗の野球試合が行われる。ウイリアムズ大対アマースト大。
 1860(安政7、万延元)年 ●「7回のストレッチ」が行われる。ラッキーセブンの7回に応援チームの勝利を引き寄せる願いを込めるというのと、体をほぐすのが目的だった。
この頃NAOBPの加盟球団は60近くなっていたが、北部と東部のチームが中心だった。北部と敵対していたため、南部の球団はなかった。
 1862(文久2)年 ●ニューヨーク州ブルックリンに初めてフェンスで囲まれた球場がオープンする。
 1863(文久3)年 ●PHIキーストーンズのエディー・カスパート選手が初めて盗塁を行う。
 1864(文久4、元治元)年 ●BKNエックフォーズのアル・リーチ選手が、PHIアスレチックスに移籍するにあたりお金をもらう。初のプロ選手の誕生。
●BKNスターズのウイリアム”キャンディ”カミングス投手がカーブを投げる。科学者らは目の錯覚として信じなかったが、目撃者は確かに曲がったと主張。
 1865(元治2)年 ●南北戦争が終結し、野球熱が盛り上がる。NAOBPの加盟球団は91に。
 1866(元治2、慶応元)年 ●非公式の全米チャンピオンシップ試合が開催。BKNアトランティックス対PHIアスレティックス、熱狂的な観客が球場の入り口を破壊したために試合は中断。最終的にロングアイランドに場所を移して試合は行われた。27−10でBKNが勝利している。
●初めて故意のバントが行われる。BKNアトランティックスのディッキー・ピアスの試み。
 1868(慶応4、明治元)年 ●ひざたけズボン(ニッカボッカー)をCINレッドストッキングスが採用。ほどなくして他球団もこのユニフォームの導入を検討。
 1869(明治2)年 初のプロ野球球団CINレッドストッキングスが誕生。キャプテンでショートのジョージ・ライトが1シーズン(3月15日から11月15日まで)を1,400ドルで契約。投手のエイサ・ブレイナードは1,200ドルで契約。
 ピッチャーとキャッチャーのコンビがバッテリーと呼ばれるようになる。
 1871(明治4)年 3/17 初のプロ野球協会ナショナル・アソシエーション・オブ・プロフェッショナル・ベースボール・プレイヤーズ以下NA、全国プロ野球選手協会)がNYのカフェで誕生。最初の会長はジェームズ・N・カーンズ。参加料は1チーム10ドルだった。1875年まで存続した。現在はNAは正式の大リーグとして認知されている。
これにより従来あったNAOBPはアマチュア協会と名称変更し存続したが権威は失墜。
●NAペナントはCHIホワイトストッキングス、NYミューチュアルズ、CLEフォーレストシティーズ、フォートウェイン・キキオンガス、ロックフォード・フォーレストシティーズ、トロイ・ヘイメーカーズ、WASオリンピックスで争われる。
●打者が投手に、腰から上の球か腰から下の球かを注文できる。注文どおりにこない場合はストライクとは認められなかった。ストライクから外れた球(つまりボール)が9球になると打者は一塁まで歩くことができた。ちなみに現在は4球。
 1874(明治7)年 ●CINレッドストッキングス、プロ野球初の海外遠征、英国へ行く。
 1875(明治8)年 ●フィラデルフィアズのジョー・ボーデン投手、大リーグ史上初のノーヒット・ノーランを達成。
●グローブが初登場。ボストン球団のチャールズ・G・ウェイトが発明。その後15年ほどで使用が一般化される。
 1876(明治9)年 ●2/2 ナショナル・リーグ(現在のナ・リーグ)が発足。それまでの開かれたリーグ方式はとらず、参加資格は厳しく定めた。球場での酒類販売・賭博行為・日曜の試合開催は厳しく禁止した。
●参加チームは、CHIホワイトストッキングス、CINレッドストッキングス、BOSレッドキャップス、PHIアスレティックス、ハートフォード・ダークブルース、ルイスビル・グレース、STLブラウンストッキングス、NYミューチュアルズの8球団。4月2日に最初の試合が行われ、BOSレッドキャップスがPHIアスレティックスを6−5で下した。ちなみに勝利投手は、NAで史上初のノーヒッターになったジョー・ボーデン、ナ・リーグでも史上初の勝利投手になった。
 1877(明治10)年 ●ナ・リーグ史上最初のスキャンダル。ルイスビル・グレーズの選手が選手が優勝旗と引き換えにギャンブラーから賄賂をもらったことが発覚し永久追放に。グレーズもリーグを追放になる。
 1880(明治13)年 ●三塁ベースがホットコーナーと呼ばれだす。試合中になんども鋭い打球が飛ぶのをライターが見て命名。
 1882(明治14)年 ●9/25 大リーグ史上初のダブルヘッダーが行われる。
ナ・リーグと別の野球リーグ、アメリカン・アソシエーション(以下AA)が創立。自らはナ・リーグと同格の大リーグと称したが、時には主従関係、時には協力関係とスタンスを変えていった。参加球団はシンシナティー、ルイスビル、フィラデルフィア、ピッツバーグ、セントルイス、ボルティモアの6球団。
●AAのセントルイス球団に、天才一塁手チャールズ・コミスキーが参加。彼の、一塁からやや離れ二塁よりに守るスタイルや投手にも一塁カバーを要求するなどの方法は、他球団にも採用されるようになる。のちにコミスキーはア・リーグ成立にも助力。
 1883(明治15)年 ●AAがナ・リーグからの選手の引抜をしないことを条件に、ナ・リーグはAAを大リーグとして認知。
●ワンバウンドのファールを取ってもアウトにならないことになった。
 1884(明治16)年 2大リーグの優勝チームによるチャンピオンシップ試合が行われるようになる。ナ・リーグのプロビデンス・グレイズが、チャーリー・ラドバーン投手の活躍でAAのNYメトロポリタンズを下した。
投手の投球フォームに関するルールが変更。従来はボールを腰から下の高さで放さなかったのだが、肩の高さまでリリースしてもよい範囲が拡大。これによりサイドスローやオーバースローが可能に。
初の黒人大リーグ選手が登場。AAのトレド球団のモーゼス・フリート・ウォーカー選手。
●NYメトロポリタンズのティム・キーフ投手が19連勝を達成。
●チャールズ・スウィーニー投手が一試合9イニングで19奪三振を達成。
 1885(明治17)年 ●捕手のジョージ・マイヤーズがチェストプロテクターを考案。
●シカゴ球団の大スター選手キング・ケリーが1万ドルでボストン球団に売却されたが、当時前代未聞の金額で話題に。
 1889(明治22)年 ●犠牲バントが認知されるが、以前打席数にカウントされる。1897年になって打席数に数えないルールが一般化。
●内野手の頭は超えるが外野手が取るには飛距離が足りない弱い打球を「テキサス・リーガー」と呼ぶようになる。 
 1890(明治23)年 ●球をグラウンドに打ち付けて高くバウンドしている間に一塁に進むテクニックが流行。特にボルティモアの2選手が得意とし「ボルティモアチョップ」と呼ばれる。
 1891(明治24)年 ●ナ・リーグとは違う都市に球団を置いていたためこの年まで続いたAAだったか、秋に解散。
 1894(明治27)年 この年、全国でバッターがホームランや安打の記録を作る。
●BOSナショナルズのリンク・ロー選手が一試合4本塁打。
●BOSビーンイーターズのヒュー・ダフィー選手が打率.440を記録。
 1895(明治28)年 ●ファウルチップがストライクとみなされるようになる。
●インフィールドフライのルールが制定。1901年から現在の形になる。
●ピッチャーのマウンドプレートが24インチ×6インチ(61cm×15.2cm)になる。またこの2年前の1893年に、投手・捕手間の距離が、従来よりも3メートル以上も遠い18.4メートルになっていた。
 1900(明治33)年 ●1/29 アメリカンリーグ(以下ア・リーグ)が8球団で設立。

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